Global Avenue Okinawa その角を曲がれば世界に広がる 

TORONTO留学・ワーホリ、英語、沖縄じょーほー

トゥイッター

こんにちはたっちゃんです。

 

ふと思い立ってデジタル断捨離をしてました。

最初に削除したのはTwitterFacebookからはログアウトし、ブログも更新することなくはや1年が経ちました。

 

デジタル断捨離、めっちゃいいです。

 

SNSを介して入ってくる要らない情報数が削減できたので、デマとかテキトーに悩ませられることもなく、物理的に時間を有効活用できるしがなくて楽です。

 

と思いつつも、ブログを宣伝する媒体としてFacebookツイッターが一役買っていたことにも気づかされました。触ってもいない、今では閲覧数皆無のサーバー上に漂う1ページに過ぎません。1ページでもおこがましいくらい。

 

ひょんなことあってツイッターを再開することにしたので久々にブログもそれに伴って再開してみます。多分やってることはツイッターと大差ないけどX)

 

最近はイチゴがシーズン真っ盛りでイチゴ狩りが流行ってますね。

ちなみに英語でストロベリーピッキング

 

STRAWBERRY Picking 

 

 

~end~

僕のメジャースプーン

たっちゃんです。

 

コロナ以前読書会があった。

 

月に1冊同じ本を決めて読み、集まってお酒を飲みながらその本について感想を言い合うという

 

一言で言うと読書感想会。

 

参加者は琉球大学のメンバーで英語、文学専攻の先輩、後輩たちだ。

 

これがとてつもなく愉しいとともに深い学びの場であり貴重な時間だったが

 

現在コロナの影響で集まるということができず、オンラインでの開催はしているものの

 

仕事や時間の都合が合わずに参加できていない。

 

毎度先生が要約と考察を提示してくれる。いい機会なのでそれを文章として残して共有する。多くの人の目に留まり、読書好きの人と繋がるきっかけになればこの上ない幸いだ。

 

辻村深月著『僕のメジャースプーン』

残酷な事件に巻き込まれ、閉ざされてしまった少女の心を開く方法を模索するうちに内なる心の重要性に気づく少年の物語。

 

動物虐待によってそれを可愛がっていた少女の精神が破壊される一方で、その犯人は対象が動物だということでさしたる罪には問われない。

 

正義とは、犯罪とは何かという疑問を提示する。

 

名作『Godfather』の冒頭のシーンが思い出される

娘に集団暴行を加えた若者たちが、これもさしたる罪に問われず釈放されたことに憤慨する葬儀屋

映画では法律上ではどうにもならない復讐の頼みとしたのがマフィアの超社会的な力なのだが、本作品ではそれが主人公の少年が持つ「力」にあたる

この力は呪いをかける能力ということだが、いわゆる言葉によって相手を拘束するということ

 

魔法とか色々言い方はあるだろうけど、基本はスペルspell

つまり言葉そのもの

 

本作品ではこの力が「条件ゲーム」と呼ばれる

「努力しないと、報われない」のように条件をつけて相手の行動を操る。

 

実のところ人間は物理的な肉体の隅々を含めてほとんどが「言葉」に支配されている。

 

「付き合う」と言った瞬間、なぜか相手以外の異性といることに罪悪感を生じさせられるように、言葉によって規制がかかる。

 

 

「何もしない」、「ボーっとする」といった非行動的なものも含めて、我々の生活の中で言葉が介在しない行為、状態があるか思い巡らしてみるといい。

 

この言葉で支配された人間の行為に積極的に介入するというのが「条件ゲーム」

しかし、この「条件ゲーム」には2つのファクターが不可欠である

 

それは「参加」と「均衡」

 

ゲーム理論といえばウィトゲンシュタインが有名だが、その精緻な論理よりも重要なのが、そのゲームは決まりごとの適用範囲内にだけしか機能しないこと、つまり参加しなければそもそも意味を持たない。

 

この不参加の逃げ道を封じるのが少年の「力」の役割なのであろう

つまり強制終了ならぬ強制参加だ。

 

主人公の少年は、自分の大好きな少女の心を壊した犯人への復讐に、この力を使ってどのような条件を与えるべきか模索する

 

罪と罰の均衡

 

しかし、少年はなかなかその罰を見つけられない

なぜならどれくらい残酷で重い「罰」が犯人の犯した「罪」と「均衡」が取れるのかわからないからだ

その苦悩は例えば法律、あるいは日常生活において我々がいかに「不均衡」の中に生きているかを明るみに出す

よく自分がこれくらいのことをしてあげているのだから、これくらいのことはして欲しい、あるいはしてくれて当たり前というような感情を抱くことがあったとする

 

それって同等?

 

これくらい働いたからこれくらいの報酬は欲しい

 

それって同等?

 

そもそも通貨のレートが変動することから、お金でさえ価値の均衡はありえないことを我々は目の当たりにしている

 

条件というけれど、結局のところ原因と結果は同等のものとはなりえない

均衡などない

 

そうしたまやかしの均衡の上に成り立つゲームに少年は圧倒的な不均衡を持ち込む

つまり自分の死だ

 

自分の死を賭けてでも犯人に償いをさせる

しかし、犯人はさらにこの不均衡だらけの世界の闇を暴露する

つまり人の死をなんとも思わない

 

人の死などそれと均衡する価値など何も存在しないということを見せつけるのである

 

この辺りの凄まじさについては、韓国映画の『悪魔を見た』が大いに参考になるだろう(韓国映画恐るべし)

 

もちろん本作品において犯人は法律というゲームによって処罰されることになるのだが、そのゲーム自体の限界を暴いてしまったことに重みがある

なぜなら、かろうじて生き延びた少年は、ゲームとは無関係に、閉ざされた心を開いていく少女に立ち会うことになるからである

 

そのきっかけは紛れもなく少年の少女に対する思いやり

自分の死という究極の不均衡を賭けることのできた少年の思いは明らかにゲームを超越している

そもそも不思議な力だとかゲームだとかは全く役に立たなかったのである

 

しかし、そのゲームというまやかしの均衡を巡って苦悩したことは自分の内部にある思いやりの重要性を改めて気付かせた

 

タイトルのメジャースプーンとは計量スプーンのことであり、それは少女が少年に贈ったもの

 

サンタがいる、いないかを巡って少年がクラス中を敵に回して「いる」と主張しながらも、最後に「いない」と認めた

「いる」と信じていながらも、クラス全体の不和を解消するために「いない」と卑屈に笑った

そうした悲しい「不均衡」を受け入れることができる少年の優しさを少女は見抜いていて、大切にしていたメジャースプーンをあげた

 

計量スプーンはその名の通り量を計るものである

 

少女だけは少年の気持ちを計ることができた

 

少女が渡した小さなメジャースプーンは、この世は計れないものに溢れているという象徴なのだろう

 

ギブアンドテイクの均衡にあくせく生きることの虚しさに改めて気づかされる。

 

 

月と六ペンス

月と六ペンス

 

William Somerset Maugham(サマーセット・モーム)著

The Moon and Sixpence『月と六ペンス』

 

タヒチを描いたゴーギャンをモチーフに、死後にその芸術性を再評価された画家ストリックランド(Strickland)の、公の評伝には表れない語り手との個人的な交流

ストリックランドは自分を貫き、周りに迎合しない気質で、それゆえ不愛想な印象を与える

一方で女性にはやたらと惚れられ、そしてその女性をあっさりと捨てる

しかし、これはいわゆる「常識的な」見方にすぎず

モーム自身のふりをした「語り手」がその「常識的な」視点の役割を買って出ており

もって回った道徳観、倫理観、「常識的には」、「一般的には」といった常套句を並べ立てる。

 

アルベール=カミュの『異邦人』を彷彿とさせる冗長でありきたりの語りが、実は底なしの不条理を強調するための背景に過ぎないのだ。

 

モームは、しかし、「人間はいとも簡単に神話を創造できる」、「話に一貫性を持たせるならば」、「悪魔だってその気になれば、いつだって聖書を都合のいいように引用することはできるものだ」と言った形で、そうした「常識的な」ものの言い方がいかに胡散臭い虚構であるかを暴露しながら、「常識的な」語りを続ける。

 

本作品ではこの語り手の虚構性をまとった常識が、ストリックランドの才能を際立たせる。

 

例えば家族に何も言わず突然姿をくらまし、残された家族の事を何とも思わないのかと詰め寄られると、何とも思わないと答える

裕福な結婚生活を投げうって身を寄せた人妻が自殺を図っても意に介さない

この一見冷酷にも見える態度は、そうした常識的な判断を背景にして、ストリックランドの芸術精神を浮き彫りにする。

 

この一節が象徴的だろう

 

「女というやつはだね、男から受けた痛手は赦すことはできるが、男が自分のために払ってくれる犠牲だけは、決して赦せないもんなんだよ」

 

前半は当たり前のことだ、男女問わず心の痛手など最悪時間が癒してくれる

問題は後半、これは上述の人妻への言及で、夫は語り手も懇意にしている美術評論家

しかも、誰も振り向きもしないストリックランドを高く評価する数少ない目利き

この夫人は借金に苦しむ中、夫の肩がわりによって救われ、その後結婚した

この一見するところの美談が問題

 

彼女は救われた、しかしそれはその恩を返さなければならないという重荷を背負ったことにもなるのだ。

 

それが決して赦すことの出来ない、自分のために払ってくれた犠牲

なんと薄情な!と思ったあなた。

 

偽善者ですね。

 

Gift、贈与という概念がある

贈り物をされた瞬間、返報という義務が発生する。特に日本文化において深い根を張る感覚。

つまり贈与は一方的な脅迫になる

 

オタクファンからのアイドルへのプレゼントを想像すればわかりやすいだろう

これを慈善事業に置き換えたらどうなるだろう?

その行為自体は社会的に是とされるだけに、逆に断りにくいし、その意味で荷はさらに重くなる

でも、本当にしてもらいたいことをしてもらったらありがたいけど、いい人の顔で、して欲しくもない善意をされても。

 

以前『僕のメジャースプーン』という作品を扱った。

 

 

www.tatsuyaiheya.com

 

このメジャースプーン(計量スプーン)が象徴してるのは、まさにさじ加減

人の心のさじ加減は微妙で、ちょっとしたことで壊れてしまうこともあれば(これがこの物語の主題)、人目にはかなりのダメージも屁とも思わないことだってある

重要なのは心の問題には等価関係が成立しないこと

数量に変換出来ないから

だから「さじ加減」

正直「誰々のためを思ってのことだ」とかって理由を取り繕った行動、言動、指導を目や耳にすることがあるが、正直迷惑なことが多い。

 

自分の感覚価値観を常識という名目のもと、それが正義と信じ切って疑わず、そして、相手に押し付ける。

 

まったく不毛な時間と体力の浪費.

 

必要ない。

 

 

 

ストリックランドは素直にそれを口にしただけ

だから文無しでありながら食事をおごってもらう事も、見る目もなく絵を買ってもらうことさえ拒否する

 

彼が絵を描く動機、それは「絵が描きたいから」

そして何を描くのか?「この眼に映るものを描きたい」

描くものは彼の「眼」が選択するのだ

 

そして自分の眼にかなう対象を求めてストリックランドはタヒチに行き着く

最終的に彼は失明しながら自分の部屋中に絵を描き、生き絶える

もう彼の眼には何も映すことができなかったのではないか?

 

いやそうではない、眼は窓口にすぎず、精神こそが彼の芸術の源泉であり

その精神を逆にカンバスに投影するだけでよかったのだ

 

彼の部屋に描かれたのは、楽園のような原初の世界であった

それを「エデンの園」としか表現出来ないのは西洋の想像力の限界だろう

 

 

彼の精神は西洋という生まれ育った世界を遥かに超越していたのだ

 

 

ここでGiftという概念が奇妙な符号をみせる

Giftedというと「才能のある」という意味になる

正確に言えば「才能を与えられた」

しかもこの場合、並大抵の才能ではなく、いわゆる「天賦の才」に使う

そして誰が与えるのか?

それは、まさに「天」、「神」といった超越的存在である

それらは報いを求めるであろうか? まさか

 

 

しかし、ファウストに代表されるように、超越的な能力の代償は大きい

そして、ストリックランドは眼は愚か、その命までも捧げたのである

それはつまり彼の存在が芸術の才と等価、いやその才そのものであったということではないか

 

芸術の稀有さ、超越性を改めて実感する。

 

 

 

I listen to colours

色に耳を傾ける。

 

おされすぎるやろ。

こんにちはたっちゃんです。

 

TED talksでおもしろいなプレゼンテーションを見た。

 

プレゼン者の名前はニール・ハービソン

彼は色盲と呼ばれる視覚の機能障害を持つ人で

色を見わけることができない。

 

幼小時代はすべての映像が白黒でしか認識することができなかった。.

 

機械のおかげで、脳内に埋め込まれたチップを通じ、

見るものをその色の周波数として処理され、「音」として感知できるようになったというもの。

 

色が音と組み合わせて認知されるため

色を視覚ではなく聴覚で「感じる」。

 

この装置を付けてからの生活が長くなると

その逆の感覚も発生し、生まれてきて、音を聞いて色で感じることができるようになった。

 

はたして、当然、生活は色と音が溢れている。溢れかえっている。

 

世界の切り取り方がスーパーユニークかつその表現は独特。そりゃそうだ。

 

ハイピッチなでポップな歌は黄色やピンク系に見える。

具材が豊富なサラダはレディーガガの曲を連想させるし、

ギターのコード、音に合わせた服のコーディネートをする日もある。

目の音が似ている人々などなど

まるでHUNTER×HUNTERみたいな世界観。知らんけど。

 

ちなみに大学のゼミでこの現象を説明する言葉を習った。

Synesthesia.

 

Synesthesia(シネスティージア)とは

共感覚と呼ばれるもので、ある刺激に対して通常感じられるはずの感覚だけでなく他の感覚によって対象を認知する知的現象のことをいう。

 

例えば、文字に色を感じたり、色を音として感じたり、何かに触れることでにおいを感じるなどさまざまだ。

文学では特に多用される表現方法で読んでいて面白い本には103%

共感覚の表現が使われている。日常生活でももちろん。

共感覚の表現が世界には、特に日本には腐って発酵する以上にあるのだが、なぜその色なのか、どんなにおいで表現されているのかなどと余り深く考えることはない。 

 

“黄色い歓声“は女性からの応援、好意を表す表現。

声や音域、感情まで含めて色で表現している。

 

“大人の空間“って言われたら少し薄暗い間接照明とジャズが思い浮かぶし、そこにはブランデー。

 

ミーハーだからかな。笑。

 

青春(あおはる)も学生時代とか、まだまだ未熟で甘酸っぱい感情のグラデーションがめぐるめく思春期の感情、記憶と結びついてる。

 

春のにおいがした。

って言葉もすんなり心に入ってくるけど、その匂いが表現するもの連想させるものは人によって期待感でも、失望感にもなるし、1つと決まってるわけじゃない。経験とか思考、文化が深くかかわってくるのかも。

 

春は目には見えないし、においはその時期に咲く植物や天気とかにものかかわりが深い。

 

感情を色なり、音なりで表現する感覚が日本人の心理描写の奥ゆかしさを培っているのかもしれない。

 

ひとつの表現をテーマにとって、色の使い方、リズム、連想させる情景をそれぞれの意見として、ああでもない、こうでもないみたいなくだらないけど笑いたい。

 

でーじ有意義な時間になる。

 

その話をすることによってその人の経験とか感覚を知ることになるのかもだから。

 

なんかスピリチュアルな気分になるわ。日常にあるそういう表現、その原材料にもっとアンテナ向けて発掘しよ。

 

 

情意フィルター② リスニングして英語の便秘解消

こんにちはたっちゃんです。

 

情意フィルター;「第2言語に対して自信がない時に発言を妨げ、習得を遅らせてしまうフィルター」です。

 

この言語習得の壁を乗り越えるまではいかなくても低くしていくための方法はあるのか?

 

についての考察。

 

www.tatsuyaiheya.com

 

という疑問に最近読んだ本から、解決に繋がるいい視点を見つけたので書いてみたい。

 

「人は話し方が9割」

 

 

人によっては話し方が10割っていう人もいますよ。。。

 

まず、話すってことを前提に考えると、

知らない人の前では全然話さないけど、仲のいい友達、彼氏、彼女、家族、総じて一緒にいて心地いい人とは弾丸トーク、何時間時間あっても語り足りないみたいな事ってありまよね。

 

家では

 

あー、うおぉんとか

 

ご飯食べるの?みたいな yes no questionにすら

うめき声か、ディスコミュニケーション並みで、言葉になってないくらいのスーパー省エネ発言しかしないけど、

 

友達と一緒の時はすスーパー笑顔で笑い倒し、喋りまくりでもはやだれか喋っててもカットインして喋るくらいっていうの結構普通だと思います。

 

つまり人が口数少なくなるのも、おしゃべりになるのって

 

そのコミュニティ、環境次第。

 

英語の習得、英会話にもこの環境があったら発言量が自然と上がるはずっていう。

 

その環境を作るためにはどうすんのっていうのにいい方法になるかもしれないっていうのが書いてました。どどん!

 

「人は話し方が9割」

 

この本から要点をサクッとまとめると、

”自分が話を聞いてほしいように人の話を聞きなさい”

 

ちょっと話飛びますが、

 

人間には対人関係での印象、つまり人から受ける評価、承認が生きる過程でめちゃくちゃ大事。

 

ちなみにアドラー心理学では人の悩みの10割は対人関係って言いきってます。

 

友達とめちゃくちゃ話せるのって、

自分がそこではなんでも喋っていいっていう、安心感、信頼感、承認感があります。

 

打ち解けてない人の前で友達にするような

どうでもいい話、バカな話ってできないし、やろうともしない。

 

学校の先生のモノマネとか、身内ネタを他人にしてもウケないし、笑い起きるどころか、この人何?みたいな恐怖感すらひょっこりはん。

 

知らん人の前で説明もなしに身内ネタだけ話し続ける人。

 

シンプルなサイコパス。戦慄。

 

知らん人の話なんて説明があっても最高到達点愛想笑いでしょ。不毛な時間。

 

カムバック。

 

会話を基準に考えると会話が弾むのって、うなずきとか、共感が感じられるつまり、良い聞き手の存在があります。

 

んで良い聞き手のポイントが5つ!

 

①驚嘆(へ~、うお~)

②反復(リピート)

③共感(だからよね~)

④称賛(すごいですね~)

⑤質問(それから~ですか?)

 

みたいなこの展開されたらどんどん詳しく話しちゃいますよね。

 

しかも、いい聞き手がいて話が弾むってめちゃくちゃいい勉強。

 

人の英語を聞くことってそもそもリスニングの練習になっていて、これがどのレベルの対話相手でもいい勉強方法になる。

 

自分より話せる人。

例えばネイティブスピーカーや上級者の話を聞くことによって1段階上の丁寧な言い回し、単語を学び、スピード感に慣れます。

 

自分と同等もしくはビギナーの人の話を聞くことで単語、言い回し、発音のミスを発見、自分に同じようなミスがあるとその、気づき、訂正するきっかけ。

話の内容で説明が必要な場合に簡単な英語でパラフレーズをするというきっかけになります。

 

異なる言語をマスターしたいならその言語のネイティブ彼氏、彼女を作るってこの学習原理の上に成り立ってるんです。

 

そもそも好きという感情、承認感があってその人の言うことを理解したい、コミュニケーションしたい!

 

話す事がそれを体現する。

 

しかしながらばっと、気をつけないといけないのは、

 

好きって感情から先に入らないと失敗と待ち合わせ。

 

彼氏、彼女の話聞きたくないって人いないし、そもそも話したい、いろんなことシェアしたい、ミスしても笑わないし、優しく訂正してくれる。もはやミスすらかわいい。知らん単語とかも質問しやすいし。だからどんどん話す。

 

英語力上達。ないしは習得が結果として付いてくるんです。

 

だけど、好きって感情ってよりは外人の彼氏作りたいとか英語力伸ばしたいから、なんならちょっと遊びたいだけの下心で近づいてくる人と付き合っても、正直1か月以内に遊んで関係が終わるだけ。

英語力じゃなくて、負の感情が残るだけ。ぴえん。

 

悲しいけど、その経験してる人をなかなか知ってる~。世知辛い。

 

脱線気味ですが、

 

情意フィルターを下げられるかもしれない可能性として、

話しやすい環境で英会話をする。友達とか、英会話にモチベーションがある人とか、興味がある人とか、

 

最初っから貪欲にネイティブネイティブしてても話すスピードに圧倒されて聞いてないレベルで終わっちゃうかも。

 

自分が聞いてほしいように相手の話を聞いてあげることでその環境を作っていく。

なんか結構できそうな気がする。

 

 

 

うれしい悲鳴 Joy streaming

とてもとてもお久しぶりのたっちゃんです。

相変わらずコロナが続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

 

久々に読んだ本がノスタルジックな気分にさせてくれたので8か月ぶりに書きます。

 

うれしい悲鳴をあげてくれ。

 

4年前くらいに読んでおもろいなと思った短編小説で久々に読み返したら

昔の自分もこの表現がいいと思ってたんだなって感じる部分がところどころあって

なんかいい意味で自分自身が変わってない部分を確認出来たり、

 

逆にその当時よりピックアップする箇所が増えてたり、

 

同じセンテンスでも今だから目に付くし、なおかつ捉え方が変わってたり、

 

それ俺もあったわ~わかるわ~っていう話、ニュアンスが増えてて

 

要するに自分の知識とか経験がちゃんとアップデートされてるなっていうのを確認できた気がして感慨深い。


ほいで、シンプルに短編集なんで読みやすい。

 

世間と時事に関する風刺的な面をちらっと見せながら、非現実でもいや実際にあり得るなってギリギリなところで的をついてる。

 

タイトルがキャッチ―で、オチで洒落てて、味わえるすっきり感が

 

スイカバー食べてるみたい。

 

すっきり感を味わえる食べ物は人によって違うか。知らんけど。

 

幽霊とチューニングが合う湿っぽい人間にはなりたくない。っていう言葉があってめちゃ共感できた。

 

チューニングが合う人と一緒に居たいってのはみんな思ってることだと思う。

 

仕事で関わる人とか、上司には特にチューニングあってほしい。

自分の立場とか話、疑問、相談を聞いてくれない上司は仕事一緒にしたくないって気分になる。

 

友達は絶対的にそうだろうし、恋愛でもだろうし、

 なんなら自分から攻めの姿勢でチューニング合わせに行ってる。

 

内容的に一番ハッとさせられたのは
「快適」っていうものが世界で唯一人々が求めているもの商品なのかもっていう考え方。

 

人って買い物する。商品とか娯楽とか。

食べたいもの、着たい服、乗りたい車、一緒に時間を過ごしたい人との時間とかって

その人にとっての「快適」という感覚、時間、空間、総じて満足度につながるものなんだはず。

 

見て気分が落ち着くとか、食べて美味しくて満足するとか、触って気持ちいいとか、聞いて心地いいとか、匂いでさわやかな気分になるとか

五感を快適で満たすのが多分幸福感につながるんだはず。

 

作者はロックバンドミュージシャンだったから音楽がめちゃくちゃ好きな人。

 

聴覚は意識しなくてもずっと何かを聞いている働き者の感覚の1つ。

 

世の中の数ある聞きたくない音が溢れている中で「聞きたい音楽を聴ける幸せ」っていうのを感じるらしい。

自分の生活に置き換えるとめちゃしっくりくる。

Apple music, spotify, youtube何でもいいけど、ドライブ、ランニング、筋トレ、仕事のちょっとした休憩時間なんでも時間があれば自分の好きな音楽をかけるし、そのクオリティにこだわってノイズキャンセリングのあるワイヤレスイヤホンバカ売れなのを見れば、人がどんだけ好きな音で自分の生活を無意識に満たそうとしてるか、わかってストンって腑に落ちた。

 

読書が好きな人はまず本を読むっていうのが快適で、

 本を読んで言いたいこと言える、チューニングがあってる仲間たちと酒が飲める

 くだらん話をくだらなね~って言いながら笑い合える時間が

 多分今のところたっちゃんにとっての一番の快適で

 

それにつながることだったら率先して行動する。

 

作者は人と出会うときに

 

「1時間語れることはありますか?」って質問をするらしい。

 

そしたらその人の持つコアな部分が垣間見えることがあるらしい。

 

自分だったらなんて答えるのか、

 

留学、サッカー、最近読んだ本くらいかも、伊平屋(地元)。

 

そんくらいなのかも、いや、喋れるのか?

プレゼンみたいなことって考えたら普通に1時間はきついな。

 

質問形式とかにしてくれたらもっといろんなこと喋れるんだはずね。だから会話が好きなんだろう。人の話聞くのも。

 

って考えたら1人でしゃべり続けるのはしんどいことだ。人の話を聞いてそっから興味ある話を一緒に展開していくとことに「快適」を感じてるってことなのかもしれん。

 

なんという優しい気づき。

 

とりあえず、タイピングが遅いから継続して練習するためにブログ再開します。

読書も再開。

 

 

 

 

 

 

 

結果の対義語は原因 それよりも目的で物事を見てみる説

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こんにちはたっちゃんです。

 

 「嫌われる勇気」という本を読んだ。

でーじ面白いことがたくさん書いてあった。

ユニークと思った一説について考えてみたい。

 

成人男性が喫茶店でウェイターにコーヒーをかけられた際に

 

ウェイターを大声で怒鳴りつけた。

 

僕がこの状況で怒るのは正しいでしょう?と質問をした。

 

もしかすると、誰もが「怒るのが当然」と思う状況かもしれない。

 

要するに男性は

 

怒るという「結果を招くのに十分な原因があった」と説明したいわけだ。

 

この考えは原因論である。

原因論というのはかの有名なフロイトが提唱した。

現在の出来事や状況は過去の経験に起因すると考えるものでシンプルに

 

結果 → 原因(過去) 

 

の関係性でほとんどすべての人間がこの考えが共通感覚として理解しているのではないだろうか。

 

原因論では人間不信、男性不信、引きこもりといった状態がよく例に出される。

 

人々がそのような状態になるには過去のトラウマ的な経験原因と考えられるからだ。

 

最も信頼していた親友に裏切られた人は過去と同じようには人を信じられないかもしれないし、

最も愛情を注いでいた男性にもてあそばれた人は過去と同じように人を愛せないかもしれない。

 

そういった過去のトラウマ的経験から引きこもる人もいるだろう。

 

つまり、ウェイターがコーヒーをこぼすという失態が原因

 

男性が怒り大声を出し怒鳴りつけたという結果が生まれたと考えられ

 

男性はそれは当然なことだと主張している。

 

しかしながらやしがばっと

 

「嫌われる勇気」では目的論が提唱されている。

 

目的論とは簡単に言うと

 

潜在的なものも含んだ個人の目的が先にあり、それによって結果につながる行動を取ったと考えるものだ。

 

目的 → 結果(未来)

 

結果を生み出した行動に目的があったと考える。または、目的を与える考え方だ。

 

僕がこの状況で怒るのは正しいでしょう?の質問に対する哲学者の回答が以下である。

 

あなたには大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった。(p.34)

 

 

この考え方はなかなか目から鱗だった。アイからウロコがフォーリンダウン。

 

目から鱗っていう表現は聖書からきてるって知ってた?

 

成人男性は自分の人生、現在の生活、仕事に満足しておらず

 

幸せとは何かを常日頃から考えている。

 

彼は潜在的にウェイターという赤の他人に対して日ごろのうっぷんをぶつけたいと思っていた。

 

また、厳密に考えると彼は潜在的に怒りをぶつけられる場所を選択しているのがわかる。

 

人生は選択問題集だ。

 

レストランにおいてお客様が上でとウェイターが下という上下関係が存在する。

こと日本においてはこの考え方が濃厚だ。

 

「お客様は神様」という理論を掲げる接客業は多い。

 

企業側がこの思考を持つのはいいことだ。

その姿勢・マインドで働くことがより良いサービスの提供につながるからだ。

 

やしがしかしばっと

 

お客側がこの思考を持つのは危険だ。コロナよりデンジャー。

 

店員さんに横柄な態度を取ったり、いちいちクレームをつけ店員さんを困らせるからだ。

 

ウェイターがコーヒーをこぼすこぼさないかに関わらず何かアラを探して

いちゃもんつけてたはずだ。

 

店員さんに横柄な態度を取る人を見ると引く。ドンびく。干潮の泡瀬干潟みたいに引く。

 

つまり、成人男性は大声を出して人を怒鳴りつけたいという目的があり

 

レストランという絶好の場所を選択し行動し、目的を達成した。

 

ばいだうぇい目的論は仕事にも活用できるらしい。

 

原因論を持って部下や同僚に接する人は気づかない内にパワハラをしている可能性があるらしい。デンジャー。

 

何か問題が起こったときに

「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と原因を突き詰めてしまいがちだからだ。

 

「なぜ?」って聞かれるとなんか責められてる気するちゃう?

 

ミスしたら怒られる。徹底的にマニュアルに沿わないと。っていう考えに収まって

いると柔軟な思考と風変わりなアイデアなんて出ない。

 

何も考えずに一生同じ仕事を機械的にこなすのは以外に簡単だ。

簡単だったと言うべきか。

 

愛知の自動車工場でエンジン組み立てのラインの期間従業員をしてた頃を

思い出す。

 

振り分けられた作業を覚えたら後は体が勝手に動く。。思考なんてない

 

マニュアルに載っていないことは一切しない。

ミスをしたら上司が飛んできて修正する。

同じミスをしたら怒鳴られることも普通にあった。

 

彼らはこれを「教育」と呼んでいた。なつい。疑問だが。

あの教育は能力や可能性をぜんぜん引き出してはくれなかったが。

 

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機械が壊れたり、システムの誤作動なら原因を追究するのは効果的だ。

 

だけど

人とコミュニケーションを取りながらの仕事では「なぜ?」じゃなく

「どうしたい?」「「どうなりたい?」って目的を基本にして考えると

いろいろええ発想ができるらしい。

 

目的論様様やな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スクリーン見ない方が幸せ説2 Screen makes us less happy

はいさいたちゃんです。

 

続きかきましょうね。

 

「日曜日はどこに」では主人公わたしがアイフォンと過去に中に依存して生きているという状況が描写されていた。

 

「アイフォンをさわってどうでもいいような記事を読みつづけた。リンクからリンクへ飛び、そこに映されるどうでもいい文章をただ目に入れてスクロールしつづけた。そしてだんだん何をしているのかわからなくなった。」(71)

 

このような状況は最近のほとんどすべての若者に共通していると言える。

 

わたしは作品中において起きてすぐにアイフォンを手にし、目的もないまま画面をスクロールしている。そしてある作者の死を知ることになった。

 

家の中でも外でもどこに行ってもその両方の場所では画面を見ている。約束の場所についてから2時間の間彼女は画面をスクロールしつづけた。とても機械的な動きであり、人間の生活にある豊かさのようなものが感じられない。

 

スマートフォンを使うことでいろいろなことが可能なって、ある意味では欲しいものは何でもすぐに手に入ると言える。SNSの更新によって友達がどこにて、何をしているのかを知ることができる。自分の情報を社会に発信することやいろいろな情報・考えを共有することは素晴らしいことでスマートフォン、インターネットはそれをより手軽に広範囲にわたってすることを助けてくれるが、それに依存しすぎることで現実世界から自分が得るものが薄っぺらいものになってしまう。

 

他人のフェイスブックなどを見ることで、まだ食べたことのない料理や会ったことのな

い人達を知ることができる。

 

他人の体験をあたかも自分が体験したような気持になることができる。

 

まだ会ったことのない画面上の友達という奇妙な関係性も当たり前になった。

 

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スクリーンスクリーンスクリーン

 

実際にそこに行くことでしか感じえない感動や自分自身の体験。その場所のにおい、天気や温度、風の音や虫の声、人々の手のぬくもり。自分の五感すべてで感じる体験はその感動がその人の中に新鮮に生き続けることの手助けをしてくれる。

 

そしてそれを思い出すときより鮮明により確実な記憶としてよみがえってくる。それはスクリーンでは決して味わうことはできない。わたしは約束の場所に向かう際にとても生き生きとしていた。それはわたしが現在の生活に満足感を持っていないことを意味している。

 

「目に入ってくるもの、匂いとなってやってくるもの何もかもが、たまらなかった。今の自分がいつを生きている自分なのかが、一歩踏み出すたびに、ほどけてゆくのが見えるようだった。着ていたワンピースの模様。履いていた靴の硬さ。わざと機嫌を悪くして雨宮くんを困らせた理由。夏の暑さに乾いた土の上に大きな木の葉がつくる、ひんやりとした青い影。のどの渇き。歩きながら、色んなことを忘れたくないと思ったときのこと。わたしは何もかもを思い出すことができた。」(68)

 

過去の記憶に関する描写は驚くほど鮮明で彼女の当時の感情がありありと感じられる。つまりわたしは現在よりも過去に生きていると言える。

手軽に手に入るものはすぐに失ってしまうものが多い。スマートフォンによってほとん

どのものが手軽に手に入るようになり、友達や経験、感動さえ薄くなり意味をなくしてしまった。その現状がどこか味気のない生活を生み出している。何か小さいものを手に入れるために努力するという過程がその手軽さに取って代わられることで人々はもがいたり、葛藤したりという人間的な行動をしなくなってしまったと考えられる。実際に行ってみることでしか感じえないもの、それは特別で自分でしか感じることができない。そういう特別な場所にいるときにスクリーンを気にする必要はどこにもない。今、誰がどこにいる。誰と、何をしていて。何を考えているのか。そんなスクリーン上の情報ははっきり言ってどうでもいい。それが自分の人生にどう関係するのか、まったくの無関係であるにも関わらず人々はわたしは画面をスクロールしつづけた。

 

スマートフォン、インターネットは多くの利便性を持ち人々の生活に貢献している。それによっては人々を繋がりやすくなり、多くのものを手に入れたと同時にそれによって束縛される状況が存在している。人は自分で理想の人生を作り上げていく。その過程でインターネット、スマートフォンは頼りになる道具の一つであるが、多すぎる情報に左右されて漠然とした不安の中に人々を突き落とすものでもあれば、その利便性によって人々を束縛するものでもある。自分に必要な情報を自分の判断から切り取って有効に活用するのかは自分次第である。スマートフォン・インターネットによって束縛され生活が味気のないものになり過去の生活が美化されて見えることもある。そこにあるものを耳で聞いて目で見てにおいを嗅いで感じるのか、それともただスクリーンを見てそこにいったつもりになるのかはまったく違う。

 

その便利さに身を委ねることで翻弄されてしまうのか、それとも道具として使いこなせるかによってそれらは大きく形を変える。有効な形にする方法はとてもシンプル。ノー・スクリーン・ポリシーに従うことだ。スマートフォンやアイフォンの使用を制限することであなたの生活は創造性を増す。

 

スマートフォンを置いて外出したり、趣味の読書に時間をかけたりする。

 

スクリーンを見ないことで新しい景色を発見することや新しい人に出会うことができるかもしれない。

 

それらの初めてのものを通して新しい観点や考えが生まれるかもしれない。その場所、時間をあなたが他人に束縛されることはない。

 

何もかもを自分で選択できる、自由がそこにはありそれは心の豊かさを意味する。意味のない情報や人々の声に人生の大事な今という時間を左右されることはもったいない。

 

ワンガリーマータイだ。

 

 

スマートフォンを使わない時間、場所を決めることによって生活の瞬間瞬間を捕まえることができるようになれば人生はもっとカラフルで意味のあるものになる。

 

 

 

引用文献

川上未映子著 「日曜日はどこへ」講談社 2016 p68, 71

スクリーン見ない方が幸せ説 ~Screen makes us less happy∼

こんにちはたっちゃんです。

 

便利すぎて不便な世の中になった説を書いてみました。

 

皆さんもご存じだと思いますが、インターネット、特にスマートフォンがあることによって人々の暮らしに趣きを感じることが少なくなりどこか味気のない生活がある。

 

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スクリーンスクリーンスクリーン

 

最近読んだ「インターネットの呪縛」という作品を例に考えてみたい。

 

めちゃくちゃかんたんにあらすじ説明すると離れて住んでいる姉に

妹がお金を貸してくれないなら自分の臓器をネット上で売ると脅した話。

 

インターネット、スマートフォン、タブレットなど

スクリーンの前で過ごす時間が一日の半分以上の割合を占めるようになり

 

人々の幸福度への影響やコミュニケ―ション形態の変化など様々な問題を生み出している。

 

特に若者達の間ではSNS依存者の数は多く

 

片時もスマートフォンやタブレットが離せないような状況に陥ってしまっている。

 

考えてみてほしい。

 

交通信号を待っているとき無意識にケータイを見ていませんか?

起きたらとりあえずLINEニュースやSNSのストーリーを流し見しませんか?

 

情報伝達のツールとしての利便性はもちろん高いが、その利便性がときに知りたくもない情報を与え、

人々を現実世界から切り離してネット上や画面上の世界に閉じこめてしまうという結果を作り出している。

 

スマートフォンがあればその場から動くことなく大体のことはできる。

電話やメールでの連絡はもちろん、ニュースや様々な情報の取得、ネットショッピングや数えきれないほどの便利なアプリ、動画サイトやゲームなどの娯楽。それ1つあれば何でもできるという利便性が処理することができない膨大な情報となってスクリーンを通して目に入ってきて、自分は何を求めているのか、何が必要で何をどうすればいいのかを不明確なものにし、人々を混乱させている。

 

また同時にスクリーンは実際にそこにはいない他者の目や声になって人々を束縛し生活を監視するような状況を作り出している。

 

「インターネットの呪縛」ではまさに束縛という状況が描き出されていた。

 

「昔はアメリカに行けば、故郷のしがらみはいつでも断ち切れると思っていた。人生を思い通りにやり直せると。でも、インターネットのおかげで何もかも台無し―家族はいつでも好きな時に私をつかまえることができる。これでは近所に住んでいるのとちっとも変わらない。」(10)

 

この表現に見られるように主人公であるわたしはインターネットがあることによって家族から離れているのに束縛されているような環境に不満を持っている。

 

家族から離れることによって自由を手にして自分の夢を叶えるために努力して働き、理想に向かって進んでいたわたしの生活はインターネットのせいで家族と一緒に住んでいるのとさして変わらないような状況になってしまっている。

 

特に妹とのメールのやり取りが頻繁になったため、物理的に会えない距離とインターネットを通しての精神的な束縛されているという状況にあって妹の無謀な申し出に姉が答えなければならないという結果を招いた。

 

実際に会って話す、見て確かめることができない状況での駆け引きが物語の鍵となっていたといえる。

妹は駆け引きの条件を提示することで先手を取り、断然優位な立場から交渉を進めた。

なおかつ妹は姉の性格をよく知っていてこの駆け引きにおいて、

あざとくも姉のやさしさを利用している。

 

最初から結果がこうなるとわかっているような試合をわたしはプレイしなければならなかった。それもインターネットの普及が確実に関係している。

 

もしインターネットがなければ妹はわたしを脅すようなことはできなかったし、

わたしも臓器売買の広告のウェブサイトを作るという全世界の目に入るという異常な方法でなければここまで危機感を感じることはなかった。

 

インターネット上の情報は秒で世界中の何十億という人々の目にはいる。

 

連絡のやり取りも驚くほど速く簡単にできるし、そのページから妹との契約を結ぼうとする人も一人とは限らない。速く多くの人の目に入るという利便性ゆえに危険性は何倍にも膨れ上がり、わたしに緊張感を与えて不安を煽ったと考えられる。

 

「ことは一刻を争った。」(10)

 

この言葉からわたしがいかに緊張感を感じたか読み取ることができる。

 

わたしがすぐにでも返事をしなければ妹は本当に契約を結び自らの臓器を売りに出すかもしれないし、もしくはもう売ってしまったかもしれないというある種の絶望感からわたしはこのバカげている脅しを受け入れメールでお金を貸すという返事をし、駆け引きに敗れた。

 

妹の正気とは思えない広告はインターネットを使うという手段とその浸透率によって現実性を帯びたのだ。

 

「無関心は軽蔑の最たるものだから。」(8)

 

この言葉めちゃくちゃ好き!

 

これはわたしが妹に与えたアドバイスであるが、皮肉なことにわたし自身によく響く言葉になっていると言える。つまり生活にインターネットがあることによってわたしは妹に対して無関心になることすらできなくなってしまったのである。

 

この上ないほど便利過ぎて不便ちゃう?

 

それを書いてるたっちゃんもスクリーンの前にいると思うと戦慄。

 

 

引用

ハ・ジン「インターネットの呪縛」(The Bane of the Internet)(2009)

 

 

 

 

 

Second paragraph of my thesis 卒論2段落目

 論文翻訳vol.2シェアします~。

 

序盤の説明がこちら。

www.tatsuyaiheya.com

 

However, mankind made God angry by building the Tower of Babel, and God destroyed the tower, tore the language apart and the wordhood is collapsed. As a result, the language was severed from God; names were disconnected from things, they became no longer interchangeable.

 

だがしかしばっとやしが人々のバベルの塔構築の目論見は神を怒らせた。

神はバベルの塔を破壊しワードフッドが成立しない状況を作り言語はちりじりになった。

 

あるものを表す名前(言葉)がそのものを表さないようになった。

 

アメリカ人にごーやーって言っても通じないでしょ?

 

彼らにはGO!Yeah! やったれ!やったれ!くらいにしか理解できない。

 

言葉とものが引き離された。

 

つまり以前の1つの言語、言葉、概念が共通した状態ではなく

言葉と概念(その言葉が指すもの)は必ずしも一致しない、

もしくは違うものを指すので一対一の関係ではない状態になった。

 

 

Stillman believes that it is possible to recreate the world in which the wordhood is present when he could give every single thing a name by his own language and has recovered one-to-one relation between things and words.

 

登場人物スティルマンは自分がすべてのものに新しく名前を付けることで

新しい言語を作りそれをシェアすることで言葉とものを一対一の関係に戻すことができると考えている。

 

In the same way as above, like the world is explained by word, there is a state in which things are defined by sounds. The state can be called the soundhood.

 

同じように世界が言葉で説明されるように「ワードフッド」の状態のように

世界が音で説明される「サウンドフッド」という状態が存在する。

 

In contrast to the wordhood, the soundhood keeps changing, it does not have a fixed form, neither the existence is transformable. The soundhood provides a countless number of shapes through relation with other sounds.

 

ワードフッドとは異なりサウンドフッドは変わり続ける。

 

This is because a sound has multiple meaning depending on contexts and languages. People are creating diverse soundhood by speaking with others, and their voices include the person’s inner elements like the way of talking, emotion, thoughts, personality. Musical harmony with other voices creates its individual soundhood.

 

なぜならそれが話される状況や言語によって音が持ちうる意味は一つではない。

 

 

英語での母音の発音や日本語でのお、をの発音を考えてくれれば理解しやすいはずだ。

 

英語のあ、い、う、え、おの発音は日本のそれとは違ってざっと20種類くらいある。

知らんけど。

 

これは

Schwa sound(シュアサウンド)

と呼ばれるものでほぼほぼすべての英語学習者が苦手で苦しんでいる英語の発音です。

 

englishcafe.main.jp

 

 

 

要するに音が世界を表現するサウンドフッドの状態は変わり続ける。

 

人間を考えると一番わかりやすい。

 

1人の人間でも1つの音として定義することはできない。

人間は話す。他の動物より圧倒的にそして具体的、意味を伴って。

 

人々の声も多種多様。喋り方やその時の感情、考え方や使う単語、性格。

 

カラオケなどでの音域を考えてもらえばわかる。

高い声から低い声の間の音のグラデーションを一つ一つ音として捉えると

絶対に1つではない。

 

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音域のグラデーションて多分こんな感じ

 

人はうれしい時には怒った声を出せないし、悲しい時に腹を抱えて笑うことはできない人間だから。

 

試してみて。