月と六ペンス
月と六ペンス
William Somerset Maugham(サマーセット・モーム)著
The Moon and Sixpence『月と六ペンス』
タヒチを描いたゴーギャンをモチーフに、死後にその芸術性を再評価された画家ストリックランド(Strickland)の、公の評伝には表れない語り手との個人的な交流
ストリックランドは自分を貫き、周りに迎合しない気質で、それゆえ不愛想な印象を与える
一方で女性にはやたらと惚れられ、そしてその女性をあっさりと捨てる
しかし、これはいわゆる「常識的な」見方にすぎず
モーム自身のふりをした「語り手」がその「常識的な」視点の役割を買って出ており
もって回った道徳観、倫理観、「常識的には」、「一般的には」といった常套句を並べ立てる。
アルベール=カミュの『異邦人』を彷彿とさせる冗長でありきたりの語りが、実は底なしの不条理を強調するための背景に過ぎないのだ。
モームは、しかし、「人間はいとも簡単に神話を創造できる」、「話に一貫性を持たせるならば」、「悪魔だってその気になれば、いつだって聖書を都合のいいように引用することはできるものだ」と言った形で、そうした「常識的な」ものの言い方がいかに胡散臭い虚構であるかを暴露しながら、「常識的な」語りを続ける。
本作品ではこの語り手の虚構性をまとった常識が、ストリックランドの才能を際立たせる。
例えば家族に何も言わず突然姿をくらまし、残された家族の事を何とも思わないのかと詰め寄られると、何とも思わないと答える
裕福な結婚生活を投げうって身を寄せた人妻が自殺を図っても意に介さない
この一見冷酷にも見える態度は、そうした常識的な判断を背景にして、ストリックランドの芸術精神を浮き彫りにする。
この一節が象徴的だろう
「女というやつはだね、男から受けた痛手は赦すことはできるが、男が自分のために払ってくれる犠牲だけは、決して赦せないもんなんだよ」
前半は当たり前のことだ、男女問わず心の痛手など最悪時間が癒してくれる
問題は後半、これは上述の人妻への言及で、夫は語り手も懇意にしている美術評論家
しかも、誰も振り向きもしないストリックランドを高く評価する数少ない目利き
この夫人は借金に苦しむ中、夫の肩がわりによって救われ、その後結婚した
この一見するところの美談が問題
彼女は救われた、しかしそれはその恩を返さなければならないという重荷を背負ったことにもなるのだ。
それが決して赦すことの出来ない、自分のために払ってくれた犠牲
なんと薄情な!と思ったあなた。
偽善者ですね。
Gift、贈与という概念がある
贈り物をされた瞬間、返報という義務が発生する。特に日本文化において深い根を張る感覚。
つまり贈与は一方的な脅迫になる
オタクファンからのアイドルへのプレゼントを想像すればわかりやすいだろう
これを慈善事業に置き換えたらどうなるだろう?
その行為自体は社会的に是とされるだけに、逆に断りにくいし、その意味で荷はさらに重くなる
でも、本当にしてもらいたいことをしてもらったらありがたいけど、いい人の顔で、して欲しくもない善意をされても。
以前『僕のメジャースプーン』という作品を扱った。
このメジャースプーン(計量スプーン)が象徴してるのは、まさにさじ加減
人の心のさじ加減は微妙で、ちょっとしたことで壊れてしまうこともあれば(これがこの物語の主題)、人目にはかなりのダメージも屁とも思わないことだってある
重要なのは心の問題には等価関係が成立しないこと
数量に変換出来ないから
だから「さじ加減」
正直「誰々のためを思ってのことだ」とかって理由を取り繕った行動、言動、指導を目や耳にすることがあるが、正直迷惑なことが多い。
自分の感覚価値観を常識という名目のもと、それが正義と信じ切って疑わず、そして、相手に押し付ける。
まったく不毛な時間と体力の浪費.
必要ない。
ストリックランドは素直にそれを口にしただけ
だから文無しでありながら食事をおごってもらう事も、見る目もなく絵を買ってもらうことさえ拒否する
彼が絵を描く動機、それは「絵が描きたいから」
そして何を描くのか?「この眼に映るものを描きたい」
描くものは彼の「眼」が選択するのだ
そして自分の眼にかなう対象を求めてストリックランドはタヒチに行き着く
最終的に彼は失明しながら自分の部屋中に絵を描き、生き絶える
もう彼の眼には何も映すことができなかったのではないか?
いやそうではない、眼は窓口にすぎず、精神こそが彼の芸術の源泉であり
その精神を逆にカンバスに投影するだけでよかったのだ
彼の部屋に描かれたのは、楽園のような原初の世界であった
それを「エデンの園」としか表現出来ないのは西洋の想像力の限界だろう
彼の精神は西洋という生まれ育った世界を遥かに超越していたのだ
ここでGiftという概念が奇妙な符号をみせる
Giftedというと「才能のある」という意味になる
正確に言えば「才能を与えられた」
しかもこの場合、並大抵の才能ではなく、いわゆる「天賦の才」に使う
そして誰が与えるのか?
それは、まさに「天」、「神」といった超越的存在である
それらは報いを求めるであろうか? まさか
しかし、ファウストに代表されるように、超越的な能力の代償は大きい
そして、ストリックランドは眼は愚か、その命までも捧げたのである
それはつまり彼の存在が芸術の才と等価、いやその才そのものであったということではないか
芸術の稀有さ、超越性を改めて実感する。