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スクリーン見ない方が幸せ説2 Screen makes us less happy

はいさいたちゃんです。

 

続きかきましょうね。

 

「日曜日はどこに」では主人公わたしがアイフォンと過去に中に依存して生きているという状況が描写されていた。

 

「アイフォンをさわってどうでもいいような記事を読みつづけた。リンクからリンクへ飛び、そこに映されるどうでもいい文章をただ目に入れてスクロールしつづけた。そしてだんだん何をしているのかわからなくなった。」(71)

 

このような状況は最近のほとんどすべての若者に共通していると言える。

 

わたしは作品中において起きてすぐにアイフォンを手にし、目的もないまま画面をスクロールしている。そしてある作者の死を知ることになった。

 

家の中でも外でもどこに行ってもその両方の場所では画面を見ている。約束の場所についてから2時間の間彼女は画面をスクロールしつづけた。とても機械的な動きであり、人間の生活にある豊かさのようなものが感じられない。

 

スマートフォンを使うことでいろいろなことが可能なって、ある意味では欲しいものは何でもすぐに手に入ると言える。SNSの更新によって友達がどこにて、何をしているのかを知ることができる。自分の情報を社会に発信することやいろいろな情報・考えを共有することは素晴らしいことでスマートフォン、インターネットはそれをより手軽に広範囲にわたってすることを助けてくれるが、それに依存しすぎることで現実世界から自分が得るものが薄っぺらいものになってしまう。

 

他人のフェイスブックなどを見ることで、まだ食べたことのない料理や会ったことのな

い人達を知ることができる。

 

他人の体験をあたかも自分が体験したような気持になることができる。

 

まだ会ったことのない画面上の友達という奇妙な関係性も当たり前になった。

 

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スクリーンスクリーンスクリーン

 

実際にそこに行くことでしか感じえない感動や自分自身の体験。その場所のにおい、天気や温度、風の音や虫の声、人々の手のぬくもり。自分の五感すべてで感じる体験はその感動がその人の中に新鮮に生き続けることの手助けをしてくれる。

 

そしてそれを思い出すときより鮮明により確実な記憶としてよみがえってくる。それはスクリーンでは決して味わうことはできない。わたしは約束の場所に向かう際にとても生き生きとしていた。それはわたしが現在の生活に満足感を持っていないことを意味している。

 

「目に入ってくるもの、匂いとなってやってくるもの何もかもが、たまらなかった。今の自分がいつを生きている自分なのかが、一歩踏み出すたびに、ほどけてゆくのが見えるようだった。着ていたワンピースの模様。履いていた靴の硬さ。わざと機嫌を悪くして雨宮くんを困らせた理由。夏の暑さに乾いた土の上に大きな木の葉がつくる、ひんやりとした青い影。のどの渇き。歩きながら、色んなことを忘れたくないと思ったときのこと。わたしは何もかもを思い出すことができた。」(68)

 

過去の記憶に関する描写は驚くほど鮮明で彼女の当時の感情がありありと感じられる。つまりわたしは現在よりも過去に生きていると言える。

手軽に手に入るものはすぐに失ってしまうものが多い。スマートフォンによってほとん

どのものが手軽に手に入るようになり、友達や経験、感動さえ薄くなり意味をなくしてしまった。その現状がどこか味気のない生活を生み出している。何か小さいものを手に入れるために努力するという過程がその手軽さに取って代わられることで人々はもがいたり、葛藤したりという人間的な行動をしなくなってしまったと考えられる。実際に行ってみることでしか感じえないもの、それは特別で自分でしか感じることができない。そういう特別な場所にいるときにスクリーンを気にする必要はどこにもない。今、誰がどこにいる。誰と、何をしていて。何を考えているのか。そんなスクリーン上の情報ははっきり言ってどうでもいい。それが自分の人生にどう関係するのか、まったくの無関係であるにも関わらず人々はわたしは画面をスクロールしつづけた。

 

スマートフォン、インターネットは多くの利便性を持ち人々の生活に貢献している。それによっては人々を繋がりやすくなり、多くのものを手に入れたと同時にそれによって束縛される状況が存在している。人は自分で理想の人生を作り上げていく。その過程でインターネット、スマートフォンは頼りになる道具の一つであるが、多すぎる情報に左右されて漠然とした不安の中に人々を突き落とすものでもあれば、その利便性によって人々を束縛するものでもある。自分に必要な情報を自分の判断から切り取って有効に活用するのかは自分次第である。スマートフォン・インターネットによって束縛され生活が味気のないものになり過去の生活が美化されて見えることもある。そこにあるものを耳で聞いて目で見てにおいを嗅いで感じるのか、それともただスクリーンを見てそこにいったつもりになるのかはまったく違う。

 

その便利さに身を委ねることで翻弄されてしまうのか、それとも道具として使いこなせるかによってそれらは大きく形を変える。有効な形にする方法はとてもシンプル。ノー・スクリーン・ポリシーに従うことだ。スマートフォンやアイフォンの使用を制限することであなたの生活は創造性を増す。

 

スマートフォンを置いて外出したり、趣味の読書に時間をかけたりする。

 

スクリーンを見ないことで新しい景色を発見することや新しい人に出会うことができるかもしれない。

 

それらの初めてのものを通して新しい観点や考えが生まれるかもしれない。その場所、時間をあなたが他人に束縛されることはない。

 

何もかもを自分で選択できる、自由がそこにはありそれは心の豊かさを意味する。意味のない情報や人々の声に人生の大事な今という時間を左右されることはもったいない。

 

ワンガリーマータイだ。

 

 

スマートフォンを使わない時間、場所を決めることによって生活の瞬間瞬間を捕まえることができるようになれば人生はもっとカラフルで意味のあるものになる。

 

 

 

引用文献

川上未映子著 「日曜日はどこへ」講談社 2016 p68, 71