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TORONTO留学・ワーホリ、英語、沖縄じょーほー

情意フィルター② リスニングして英語の便秘解消

こんにちはたっちゃんです。

 

情意フィルター;「第2言語に対して自信がない時に発言を妨げ、習得を遅らせてしまうフィルター」です。

 

この言語習得の壁を乗り越えるまではいかなくても低くしていくための方法はあるのか?

 

についての考察。

 

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という疑問に最近読んだ本から、解決に繋がるいい視点を見つけたので書いてみたい。

 

「人は話し方が9割」

 

 

人によっては話し方が10割っていう人もいますよ。。。

 

まず、話すってことを前提に考えると、

知らない人の前では全然話さないけど、仲のいい友達、彼氏、彼女、家族、総じて一緒にいて心地いい人とは弾丸トーク、何時間時間あっても語り足りないみたいな事ってありまよね。

 

家では

 

あー、うおぉんとか

 

ご飯食べるの?みたいな yes no questionにすら

うめき声か、ディスコミュニケーション並みで、言葉になってないくらいのスーパー省エネ発言しかしないけど、

 

友達と一緒の時はすスーパー笑顔で笑い倒し、喋りまくりでもはやだれか喋っててもカットインして喋るくらいっていうの結構普通だと思います。

 

つまり人が口数少なくなるのも、おしゃべりになるのって

 

そのコミュニティ、環境次第。

 

英語の習得、英会話にもこの環境があったら発言量が自然と上がるはずっていう。

 

その環境を作るためにはどうすんのっていうのにいい方法になるかもしれないっていうのが書いてました。どどん!

 

「人は話し方が9割」

 

この本から要点をサクッとまとめると、

”自分が話を聞いてほしいように人の話を聞きなさい”

 

ちょっと話飛びますが、

 

人間には対人関係での印象、つまり人から受ける評価、承認が生きる過程でめちゃくちゃ大事。

 

ちなみにアドラー心理学では人の悩みの10割は対人関係って言いきってます。

 

友達とめちゃくちゃ話せるのって、

自分がそこではなんでも喋っていいっていう、安心感、信頼感、承認感があります。

 

打ち解けてない人の前で友達にするような

どうでもいい話、バカな話ってできないし、やろうともしない。

 

学校の先生のモノマネとか、身内ネタを他人にしてもウケないし、笑い起きるどころか、この人何?みたいな恐怖感すらひょっこりはん。

 

知らん人の前で説明もなしに身内ネタだけ話し続ける人。

 

シンプルなサイコパス。戦慄。

 

知らん人の話なんて説明があっても最高到達点愛想笑いでしょ。不毛な時間。

 

カムバック。

 

会話を基準に考えると会話が弾むのって、うなずきとか、共感が感じられるつまり、良い聞き手の存在があります。

 

んで良い聞き手のポイントが5つ!

 

①驚嘆(へ~、うお~)

②反復(リピート)

③共感(だからよね~)

④称賛(すごいですね~)

⑤質問(それから~ですか?)

 

みたいなこの展開されたらどんどん詳しく話しちゃいますよね。

 

しかも、いい聞き手がいて話が弾むってめちゃくちゃいい勉強。

 

人の英語を聞くことってそもそもリスニングの練習になっていて、これがどのレベルの対話相手でもいい勉強方法になる。

 

自分より話せる人。

例えばネイティブスピーカーや上級者の話を聞くことによって1段階上の丁寧な言い回し、単語を学び、スピード感に慣れます。

 

自分と同等もしくはビギナーの人の話を聞くことで単語、言い回し、発音のミスを発見、自分に同じようなミスがあるとその、気づき、訂正するきっかけ。

話の内容で説明が必要な場合に簡単な英語でパラフレーズをするというきっかけになります。

 

異なる言語をマスターしたいならその言語のネイティブ彼氏、彼女を作るってこの学習原理の上に成り立ってるんです。

 

そもそも好きという感情、承認感があってその人の言うことを理解したい、コミュニケーションしたい!

 

話す事がそれを体現する。

 

しかしながらばっと、気をつけないといけないのは、

 

好きって感情から先に入らないと失敗と待ち合わせ。

 

彼氏、彼女の話聞きたくないって人いないし、そもそも話したい、いろんなことシェアしたい、ミスしても笑わないし、優しく訂正してくれる。もはやミスすらかわいい。知らん単語とかも質問しやすいし。だからどんどん話す。

 

英語力上達。ないしは習得が結果として付いてくるんです。

 

だけど、好きって感情ってよりは外人の彼氏作りたいとか英語力伸ばしたいから、なんならちょっと遊びたいだけの下心で近づいてくる人と付き合っても、正直1か月以内に遊んで関係が終わるだけ。

英語力じゃなくて、負の感情が残るだけ。ぴえん。

 

悲しいけど、その経験してる人をなかなか知ってる~。世知辛い。

 

脱線気味ですが、

 

情意フィルターを下げられるかもしれない可能性として、

話しやすい環境で英会話をする。友達とか、英会話にモチベーションがある人とか、興味がある人とか、

 

最初っから貪欲にネイティブネイティブしてても話すスピードに圧倒されて聞いてないレベルで終わっちゃうかも。

 

自分が聞いてほしいように相手の話を聞いてあげることでその環境を作っていく。

なんか結構できそうな気がする。

 

 

 

結果の対義語は原因 それよりも目的で物事を見てみる説

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こんにちはたっちゃんです。

 

 「嫌われる勇気」という本を読んだ。

でーじ面白いことがたくさん書いてあった。

ユニークと思った一説について考えてみたい。

 

成人男性が喫茶店でウェイターにコーヒーをかけられた際に

 

ウェイターを大声で怒鳴りつけた。

 

僕がこの状況で怒るのは正しいでしょう?と質問をした。

 

もしかすると、誰もが「怒るのが当然」と思う状況かもしれない。

 

要するに男性は

 

怒るという「結果を招くのに十分な原因があった」と説明したいわけだ。

 

この考えは原因論である。

原因論というのはかの有名なフロイトが提唱した。

現在の出来事や状況は過去の経験に起因すると考えるものでシンプルに

 

結果 → 原因(過去) 

 

の関係性でほとんどすべての人間がこの考えが共通感覚として理解しているのではないだろうか。

 

原因論では人間不信、男性不信、引きこもりといった状態がよく例に出される。

 

人々がそのような状態になるには過去のトラウマ的な経験原因と考えられるからだ。

 

最も信頼していた親友に裏切られた人は過去と同じようには人を信じられないかもしれないし、

最も愛情を注いでいた男性にもてあそばれた人は過去と同じように人を愛せないかもしれない。

 

そういった過去のトラウマ的経験から引きこもる人もいるだろう。

 

つまり、ウェイターがコーヒーをこぼすという失態が原因

 

男性が怒り大声を出し怒鳴りつけたという結果が生まれたと考えられ

 

男性はそれは当然なことだと主張している。

 

しかしながらやしがばっと

 

「嫌われる勇気」では目的論が提唱されている。

 

目的論とは簡単に言うと

 

潜在的なものも含んだ個人の目的が先にあり、それによって結果につながる行動を取ったと考えるものだ。

 

目的 → 結果(未来)

 

結果を生み出した行動に目的があったと考える。または、目的を与える考え方だ。

 

僕がこの状況で怒るのは正しいでしょう?の質問に対する哲学者の回答が以下である。

 

あなたには大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった。(p.34)

 

 

この考え方はなかなか目から鱗だった。アイからウロコがフォーリンダウン。

 

目から鱗っていう表現は聖書からきてるって知ってた?

 

成人男性は自分の人生、現在の生活、仕事に満足しておらず

 

幸せとは何かを常日頃から考えている。

 

彼は潜在的にウェイターという赤の他人に対して日ごろのうっぷんをぶつけたいと思っていた。

 

また、厳密に考えると彼は潜在的に怒りをぶつけられる場所を選択しているのがわかる。

 

人生は選択問題集だ。

 

レストランにおいてお客様が上でとウェイターが下という上下関係が存在する。

こと日本においてはこの考え方が濃厚だ。

 

「お客様は神様」という理論を掲げる接客業は多い。

 

企業側がこの思考を持つのはいいことだ。

その姿勢・マインドで働くことがより良いサービスの提供につながるからだ。

 

やしがしかしばっと

 

お客側がこの思考を持つのは危険だ。コロナよりデンジャー。

 

店員さんに横柄な態度を取ったり、いちいちクレームをつけ店員さんを困らせるからだ。

 

ウェイターがコーヒーをこぼすこぼさないかに関わらず何かアラを探して

いちゃもんつけてたはずだ。

 

店員さんに横柄な態度を取る人を見ると引く。ドンびく。干潮の泡瀬干潟みたいに引く。

 

つまり、成人男性は大声を出して人を怒鳴りつけたいという目的があり

 

レストランという絶好の場所を選択し行動し、目的を達成した。

 

ばいだうぇい目的論は仕事にも活用できるらしい。

 

原因論を持って部下や同僚に接する人は気づかない内にパワハラをしている可能性があるらしい。デンジャー。

 

何か問題が起こったときに

「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と原因を突き詰めてしまいがちだからだ。

 

「なぜ?」って聞かれるとなんか責められてる気するちゃう?

 

ミスしたら怒られる。徹底的にマニュアルに沿わないと。っていう考えに収まって

いると柔軟な思考と風変わりなアイデアなんて出ない。

 

何も考えずに一生同じ仕事を機械的にこなすのは以外に簡単だ。

簡単だったと言うべきか。

 

愛知の自動車工場でエンジン組み立てのラインの期間従業員をしてた頃を

思い出す。

 

振り分けられた作業を覚えたら後は体が勝手に動く。。思考なんてない

 

マニュアルに載っていないことは一切しない。

ミスをしたら上司が飛んできて修正する。

同じミスをしたら怒鳴られることも普通にあった。

 

彼らはこれを「教育」と呼んでいた。なつい。疑問だが。

あの教育は能力や可能性をぜんぜん引き出してはくれなかったが。

 

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機械が壊れたり、システムの誤作動なら原因を追究するのは効果的だ。

 

だけど

人とコミュニケーションを取りながらの仕事では「なぜ?」じゃなく

「どうしたい?」「「どうなりたい?」って目的を基本にして考えると

いろいろええ発想ができるらしい。

 

目的論様様やな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スクリーン見ない方が幸せ説2 Screen makes us less happy

はいさいたちゃんです。

 

続きかきましょうね。

 

「日曜日はどこに」では主人公わたしがアイフォンと過去に中に依存して生きているという状況が描写されていた。

 

「アイフォンをさわってどうでもいいような記事を読みつづけた。リンクからリンクへ飛び、そこに映されるどうでもいい文章をただ目に入れてスクロールしつづけた。そしてだんだん何をしているのかわからなくなった。」(71)

 

このような状況は最近のほとんどすべての若者に共通していると言える。

 

わたしは作品中において起きてすぐにアイフォンを手にし、目的もないまま画面をスクロールしている。そしてある作者の死を知ることになった。

 

家の中でも外でもどこに行ってもその両方の場所では画面を見ている。約束の場所についてから2時間の間彼女は画面をスクロールしつづけた。とても機械的な動きであり、人間の生活にある豊かさのようなものが感じられない。

 

スマートフォンを使うことでいろいろなことが可能なって、ある意味では欲しいものは何でもすぐに手に入ると言える。SNSの更新によって友達がどこにて、何をしているのかを知ることができる。自分の情報を社会に発信することやいろいろな情報・考えを共有することは素晴らしいことでスマートフォン、インターネットはそれをより手軽に広範囲にわたってすることを助けてくれるが、それに依存しすぎることで現実世界から自分が得るものが薄っぺらいものになってしまう。

 

他人のフェイスブックなどを見ることで、まだ食べたことのない料理や会ったことのな

い人達を知ることができる。

 

他人の体験をあたかも自分が体験したような気持になることができる。

 

まだ会ったことのない画面上の友達という奇妙な関係性も当たり前になった。

 

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スクリーンスクリーンスクリーン

 

実際にそこに行くことでしか感じえない感動や自分自身の体験。その場所のにおい、天気や温度、風の音や虫の声、人々の手のぬくもり。自分の五感すべてで感じる体験はその感動がその人の中に新鮮に生き続けることの手助けをしてくれる。

 

そしてそれを思い出すときより鮮明により確実な記憶としてよみがえってくる。それはスクリーンでは決して味わうことはできない。わたしは約束の場所に向かう際にとても生き生きとしていた。それはわたしが現在の生活に満足感を持っていないことを意味している。

 

「目に入ってくるもの、匂いとなってやってくるもの何もかもが、たまらなかった。今の自分がいつを生きている自分なのかが、一歩踏み出すたびに、ほどけてゆくのが見えるようだった。着ていたワンピースの模様。履いていた靴の硬さ。わざと機嫌を悪くして雨宮くんを困らせた理由。夏の暑さに乾いた土の上に大きな木の葉がつくる、ひんやりとした青い影。のどの渇き。歩きながら、色んなことを忘れたくないと思ったときのこと。わたしは何もかもを思い出すことができた。」(68)

 

過去の記憶に関する描写は驚くほど鮮明で彼女の当時の感情がありありと感じられる。つまりわたしは現在よりも過去に生きていると言える。

手軽に手に入るものはすぐに失ってしまうものが多い。スマートフォンによってほとん

どのものが手軽に手に入るようになり、友達や経験、感動さえ薄くなり意味をなくしてしまった。その現状がどこか味気のない生活を生み出している。何か小さいものを手に入れるために努力するという過程がその手軽さに取って代わられることで人々はもがいたり、葛藤したりという人間的な行動をしなくなってしまったと考えられる。実際に行ってみることでしか感じえないもの、それは特別で自分でしか感じることができない。そういう特別な場所にいるときにスクリーンを気にする必要はどこにもない。今、誰がどこにいる。誰と、何をしていて。何を考えているのか。そんなスクリーン上の情報ははっきり言ってどうでもいい。それが自分の人生にどう関係するのか、まったくの無関係であるにも関わらず人々はわたしは画面をスクロールしつづけた。

 

スマートフォン、インターネットは多くの利便性を持ち人々の生活に貢献している。それによっては人々を繋がりやすくなり、多くのものを手に入れたと同時にそれによって束縛される状況が存在している。人は自分で理想の人生を作り上げていく。その過程でインターネット、スマートフォンは頼りになる道具の一つであるが、多すぎる情報に左右されて漠然とした不安の中に人々を突き落とすものでもあれば、その利便性によって人々を束縛するものでもある。自分に必要な情報を自分の判断から切り取って有効に活用するのかは自分次第である。スマートフォン・インターネットによって束縛され生活が味気のないものになり過去の生活が美化されて見えることもある。そこにあるものを耳で聞いて目で見てにおいを嗅いで感じるのか、それともただスクリーンを見てそこにいったつもりになるのかはまったく違う。

 

その便利さに身を委ねることで翻弄されてしまうのか、それとも道具として使いこなせるかによってそれらは大きく形を変える。有効な形にする方法はとてもシンプル。ノー・スクリーン・ポリシーに従うことだ。スマートフォンやアイフォンの使用を制限することであなたの生活は創造性を増す。

 

スマートフォンを置いて外出したり、趣味の読書に時間をかけたりする。

 

スクリーンを見ないことで新しい景色を発見することや新しい人に出会うことができるかもしれない。

 

それらの初めてのものを通して新しい観点や考えが生まれるかもしれない。その場所、時間をあなたが他人に束縛されることはない。

 

何もかもを自分で選択できる、自由がそこにはありそれは心の豊かさを意味する。意味のない情報や人々の声に人生の大事な今という時間を左右されることはもったいない。

 

ワンガリーマータイだ。

 

 

スマートフォンを使わない時間、場所を決めることによって生活の瞬間瞬間を捕まえることができるようになれば人生はもっとカラフルで意味のあるものになる。

 

 

 

引用文献

川上未映子著 「日曜日はどこへ」講談社 2016 p68, 71

スクリーン見ない方が幸せ説 ~Screen makes us less happy∼

こんにちはたっちゃんです。

 

便利すぎて不便な世の中になった説を書いてみました。

 

皆さんもご存じだと思いますが、インターネット、特にスマートフォンがあることによって人々の暮らしに趣きを感じることが少なくなりどこか味気のない生活がある。

 

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スクリーンスクリーンスクリーン

 

最近読んだ「インターネットの呪縛」という作品を例に考えてみたい。

 

めちゃくちゃかんたんにあらすじ説明すると離れて住んでいる姉に

妹がお金を貸してくれないなら自分の臓器をネット上で売ると脅した話。

 

インターネット、スマートフォン、タブレットなど

スクリーンの前で過ごす時間が一日の半分以上の割合を占めるようになり

 

人々の幸福度への影響やコミュニケ―ション形態の変化など様々な問題を生み出している。

 

特に若者達の間ではSNS依存者の数は多く

 

片時もスマートフォンやタブレットが離せないような状況に陥ってしまっている。

 

考えてみてほしい。

 

交通信号を待っているとき無意識にケータイを見ていませんか?

起きたらとりあえずLINEニュースやSNSのストーリーを流し見しませんか?

 

情報伝達のツールとしての利便性はもちろん高いが、その利便性がときに知りたくもない情報を与え、

人々を現実世界から切り離してネット上や画面上の世界に閉じこめてしまうという結果を作り出している。

 

スマートフォンがあればその場から動くことなく大体のことはできる。

電話やメールでの連絡はもちろん、ニュースや様々な情報の取得、ネットショッピングや数えきれないほどの便利なアプリ、動画サイトやゲームなどの娯楽。それ1つあれば何でもできるという利便性が処理することができない膨大な情報となってスクリーンを通して目に入ってきて、自分は何を求めているのか、何が必要で何をどうすればいいのかを不明確なものにし、人々を混乱させている。

 

また同時にスクリーンは実際にそこにはいない他者の目や声になって人々を束縛し生活を監視するような状況を作り出している。

 

「インターネットの呪縛」ではまさに束縛という状況が描き出されていた。

 

「昔はアメリカに行けば、故郷のしがらみはいつでも断ち切れると思っていた。人生を思い通りにやり直せると。でも、インターネットのおかげで何もかも台無し―家族はいつでも好きな時に私をつかまえることができる。これでは近所に住んでいるのとちっとも変わらない。」(10)

 

この表現に見られるように主人公であるわたしはインターネットがあることによって家族から離れているのに束縛されているような環境に不満を持っている。

 

家族から離れることによって自由を手にして自分の夢を叶えるために努力して働き、理想に向かって進んでいたわたしの生活はインターネットのせいで家族と一緒に住んでいるのとさして変わらないような状況になってしまっている。

 

特に妹とのメールのやり取りが頻繁になったため、物理的に会えない距離とインターネットを通しての精神的な束縛されているという状況にあって妹の無謀な申し出に姉が答えなければならないという結果を招いた。

 

実際に会って話す、見て確かめることができない状況での駆け引きが物語の鍵となっていたといえる。

妹は駆け引きの条件を提示することで先手を取り、断然優位な立場から交渉を進めた。

なおかつ妹は姉の性格をよく知っていてこの駆け引きにおいて、

あざとくも姉のやさしさを利用している。

 

最初から結果がこうなるとわかっているような試合をわたしはプレイしなければならなかった。それもインターネットの普及が確実に関係している。

 

もしインターネットがなければ妹はわたしを脅すようなことはできなかったし、

わたしも臓器売買の広告のウェブサイトを作るという全世界の目に入るという異常な方法でなければここまで危機感を感じることはなかった。

 

インターネット上の情報は秒で世界中の何十億という人々の目にはいる。

 

連絡のやり取りも驚くほど速く簡単にできるし、そのページから妹との契約を結ぼうとする人も一人とは限らない。速く多くの人の目に入るという利便性ゆえに危険性は何倍にも膨れ上がり、わたしに緊張感を与えて不安を煽ったと考えられる。

 

「ことは一刻を争った。」(10)

 

この言葉からわたしがいかに緊張感を感じたか読み取ることができる。

 

わたしがすぐにでも返事をしなければ妹は本当に契約を結び自らの臓器を売りに出すかもしれないし、もしくはもう売ってしまったかもしれないというある種の絶望感からわたしはこのバカげている脅しを受け入れメールでお金を貸すという返事をし、駆け引きに敗れた。

 

妹の正気とは思えない広告はインターネットを使うという手段とその浸透率によって現実性を帯びたのだ。

 

「無関心は軽蔑の最たるものだから。」(8)

 

この言葉めちゃくちゃ好き!

 

これはわたしが妹に与えたアドバイスであるが、皮肉なことにわたし自身によく響く言葉になっていると言える。つまり生活にインターネットがあることによってわたしは妹に対して無関心になることすらできなくなってしまったのである。

 

この上ないほど便利過ぎて不便ちゃう?

 

それを書いてるたっちゃんもスクリーンの前にいると思うと戦慄。

 

 

引用

ハ・ジン「インターネットの呪縛」(The Bane of the Internet)(2009)

 

 

 

 

 

Second paragraph of my thesis 卒論2段落目

 論文翻訳vol.2シェアします~。

 

序盤の説明がこちら。

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However, mankind made God angry by building the Tower of Babel, and God destroyed the tower, tore the language apart and the wordhood is collapsed. As a result, the language was severed from God; names were disconnected from things, they became no longer interchangeable.

 

だがしかしばっとやしが人々のバベルの塔構築の目論見は神を怒らせた。

神はバベルの塔を破壊しワードフッドが成立しない状況を作り言語はちりじりになった。

 

あるものを表す名前(言葉)がそのものを表さないようになった。

 

アメリカ人にごーやーって言っても通じないでしょ?

 

彼らにはGO!Yeah! やったれ!やったれ!くらいにしか理解できない。

 

言葉とものが引き離された。

 

つまり以前の1つの言語、言葉、概念が共通した状態ではなく

言葉と概念(その言葉が指すもの)は必ずしも一致しない、

もしくは違うものを指すので一対一の関係ではない状態になった。

 

 

Stillman believes that it is possible to recreate the world in which the wordhood is present when he could give every single thing a name by his own language and has recovered one-to-one relation between things and words.

 

登場人物スティルマンは自分がすべてのものに新しく名前を付けることで

新しい言語を作りそれをシェアすることで言葉とものを一対一の関係に戻すことができると考えている。

 

In the same way as above, like the world is explained by word, there is a state in which things are defined by sounds. The state can be called the soundhood.

 

同じように世界が言葉で説明されるように「ワードフッド」の状態のように

世界が音で説明される「サウンドフッド」という状態が存在する。

 

In contrast to the wordhood, the soundhood keeps changing, it does not have a fixed form, neither the existence is transformable. The soundhood provides a countless number of shapes through relation with other sounds.

 

ワードフッドとは異なりサウンドフッドは変わり続ける。

 

This is because a sound has multiple meaning depending on contexts and languages. People are creating diverse soundhood by speaking with others, and their voices include the person’s inner elements like the way of talking, emotion, thoughts, personality. Musical harmony with other voices creates its individual soundhood.

 

なぜならそれが話される状況や言語によって音が持ちうる意味は一つではない。

 

 

英語での母音の発音や日本語でのお、をの発音を考えてくれれば理解しやすいはずだ。

 

英語のあ、い、う、え、おの発音は日本のそれとは違ってざっと20種類くらいある。

知らんけど。

 

これは

Schwa sound(シュアサウンド)

と呼ばれるものでほぼほぼすべての英語学習者が苦手で苦しんでいる英語の発音です。

 

englishcafe.main.jp

 

 

 

要するに音が世界を表現するサウンドフッドの状態は変わり続ける。

 

人間を考えると一番わかりやすい。

 

1人の人間でも1つの音として定義することはできない。

人間は話す。他の動物より圧倒的にそして具体的、意味を伴って。

 

人々の声も多種多様。喋り方やその時の感情、考え方や使う単語、性格。

 

カラオケなどでの音域を考えてもらえばわかる。

高い声から低い声の間の音のグラデーションを一つ一つ音として捉えると

絶対に1つではない。

 

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音域のグラデーションて多分こんな感じ

 

人はうれしい時には怒った声を出せないし、悲しい時に腹を抱えて笑うことはできない人間だから。

 

試してみて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人の為と書いて偽り(いつわり)

こんばんは

 

なんか昔書いていた記事を見つけたのでシェアしたい。

ちょいちょい今の考えを付け加えてみた。

 

シンプルに過去・今のどちらにもいろいろ面白い観点あるかも。

 

情けは人の為ならずという言葉には二通りの解釈がある。

 

人に情けをかけておくと巡りめぐって結局は自分のためになるというもの。

人に情けをかけて助けてやると結局その人の苦労の経験にならず成長の為にならないというものである。

 

前者が本来の意味とされており、他人への援助行動が交換的に自分に返ってくるというものでこれは人間が社会的な動物であるからこそ成立する。

 

沖縄では「ゆいまーる」という言葉でこの相互扶助の関係性を表すことができる。

 

たっちゃんは沖縄の伊平屋という離島で生まれ育った。

沖縄本島のように便利なショッピングモールや交通機関などはなく生活面で不便さを感じることもあるが、人々の関係性はとても強い。

島のコミュニティではゆいまーる精神が根付いており生活の中で相互の助け合いが当たり前。

 

例えば、子どもの出産祝いや成人祝い、その他のお祝いの際には親戚だけではなく近所の人たちもが協力してお客さんにふるまう料理の準備や会場でのテントの設営、着物などの着付けを行う。

 

田植えやサトウキビの収穫の時期には農家同士の家々に行き、稲の床準備や収穫なども協力して行う。田植え機やハーベスターなどの重機の貸し借りもよくある。

一人では負担が大きくてできないことでもそれぞれが助け合って、その助け合いが順番で回っていくような状況がある。

そして日ごろの助け合いにお互いが感謝を表明する意味も込めて珍しい料理やお酒などが手に入るとみんなで集まってシェアする。

 

相手が困っているときに助ける、自分が困っている時には相手に助けてもらえるという信頼関係が築きあげられている。

 

島の生活にはこのゆいまーるのサイクルを欠かすことができない。

 

しかし、もっと広いコミュニティにおいては相互の助け合いの実現が難しくなってきているのではないか。

 

その原因の一つは都会の利便性。テクノロジーの発展に伴い様々なものが便利になりすぎたため

人々は大抵の物事を一人でこなせるようになった。

他者との関わり合いは必要不可欠ではなくなった。

そのため人との関わり方がわからない人々が出現した。

 

引きこもり、コミュニケーション障害、社会不適合者、ネット依存などの言葉も当たり前。

 

パソコンさえあればネットショッピングやその他の社会的情報の入手は簡単に行うことができる。

 

「パソコン1台で企業」「スマホ1つで簡単収入」なんてビジネスの謳い文句も朝方の小鳥のさえずりより良く聞くようになった。

 

SNS、ネットを通して世界の裏側とつながった代わりに家で会話が無くなった。

さまざまな需要に対するデリバリーサービスの発展のおかげで人々はもはや家から出ることさえない。

 

コロナで飲食店が閉まっている今はスーパー救世主的存在のUber eatsも当たり前。

 

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海外の友達が

コロナのおかげで大丈夫かって連絡をくれてお互いの安否を確認し、ちょっとしたチャットができるのはうれしい予想外だけど。

 

そして、近隣の人々の関係性も極めて低くほとんどのひとは隣に住んでいる人の顔すら知らない。困ったときに頼れる他人がいないことは前提として困ったときにどのように他者に助けを求めればいいのかもわからないこともある。

 

いろいろな社会的な利便性が高まってしまったがゆえに自分の問題はすべて自分で対処しなければならなくなり、人は他人に厳しい目線を送るようになった。

 

その状況が最初で述べた他人に情けをかけることは結局はその人のためにならないという間違った解釈が生まれてしまったのではないか。

困っている人を見かけたにも関わらず相手を助けることが相手のためにならないと考える思考回路や瞬間的に他者を助ける行為への抵抗感が他者との助け合いは難しいものになってしまっている。

 

その考え方を変える方法として現代の人々が着目するべき観点を提案する。

 

人はなぜ他者を援助するのかという問いに対し、

社会的強化説という答えを共有することである。

 

社会的強化説とは援助行動が社会の維持や発展に必要不可欠であることから、社会という大きなチームのメンバーの一員として他のメンバーの援助行動を称賛し報酬を与える仕組みを持つことで個人の援助行動が強化していくという考え方である。誰かが誰かに援助することは援助的な社会を作ることにつながり、援助的な社会ではめぐりめぐって自分自身も援助され、適応することが容易になるという観点である。人が他者を援助することが称賛や報酬によって社会的にサポートされることによってよりよい社会が実現できるかもしれない。

 

善いことを実践する人は善人と呼ばれる。

善の行動に大小はなくその一つ一つが尊く、その人の心を豊かに育てていく。

 

善の行動に抵抗感を持つのは意外に難しい。

内心の自由、発想の自由と言われるが、人の心の中までは他人からはわからないもので心の中で善悪を含めいろいろなことを考えている。

また、他人の評価、人の目を気にしやすいのが日本人の国民性、性質だったりするからだ。

 

ぷらす、良いことをしていてもいろんなことを言う人はどこにでもいる。

Haters are everywhereってやつだ。

 

いろんなことを言うやつに限って人の行為やひととなりを見ていない。

だからあんまりというか気にしなくていい。

 

コンディショナーとリンスくらいの違いくらいどうでもいい。

 

とりあえず思うのは自分なりの善をひとつずつできる尺度で実現していきたい。

 

 

 

 

2年前の論文見つけた2年後の僕です。∼Hi Paul Auster~

 

I found my thesis for Literature class, I almost forgot about it but there are some interesting perspectives and could be good practice for translating so I'm gonna share it.

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ポール・オースターという作者がでーじ好きです。

 

卒論を見つけた。結構面白いことを書いているのでシェアしてみる。

この頃には本を読んで、書かれていないことを追及して考えるのがあほみたいに好きだった。「言葉」について考えるのがもっとも好きな時代だった。

 

In City of Grass, one of the characters, Stillman considers that the world was perfect before the fall of Babel. This is because people were unified by the language of God, and there was an ideal state, which is called Wordhood. He explains as follows:

 

Rather, its existence was immanent within man himself: the idea of a beyond he might someday create in the here and now. For utopia was nowhere-even, as Dark explained, in its “wordhood”. (City of Glass 57)

 

シティ・オブ・グラスに登場するスティルマンはバベルの塔崩落前の世界は完全なものだったと考えている。なぜなら、世界は同一言語で統一され、すべての言葉が持つ本質は共有されていた。以下彼の言葉を引用する。

 

むしろその(言葉の)存在は人間に内在している。つまりその場所はいつか作られるかもしれないが実際にはユートピア(という場所)は存在しない。存在するのは言葉とその言葉が表す概念のみである。(たっちゃん訳)

 

In the state of Wordhood, things present are defined by words. Everything is corresponded with a word, and its meaning is consistent regardless of who uses the word.

 

ワードフッドが成り立つ状況ではものの存在(本質)は言葉によって表すことができた。すべてのものは言葉と一致しており、誰がその言葉を用いてもその意味は揺るぐことがない。

 

Words reveal the essence of things, and the relation between things and names are interchangeable. Words bring things a life. As an example, although the word, ‘Utopia’ means nowhere and can never be found in the real world, its existence is in the word. Even if things do not physically exist, words indicate significance of existence.

 

 

説明

神話の中の話をしていてその世界では今とは違ってすべての人類が同じ言葉・概念を共有している。その後バベルの塔墜落によって人々は現在のように違った音、言葉を使うようになった。

 

バベルの塔知らない人はウィキプリーズ!

kotobank.jp

 

例えば今

日本語でマグロと言えば 

英語ならTuna(ツナ)

中国語ならWei(ウェイ)

スペイン語ならatun(アテュン?)

 

のように概念は同じだが話される言葉は異なる。

 

しかし、バベルの塔崩落前はマグロという言葉が全世界にの人に通じたのである。

 

これは始まりに過ぎず言葉とものが引き離される状況は現代でも見られて

言葉と概念(その言葉が指すもの)は必ずしも一致しない、もしくは違うものを指すので一対一の関係ではない。

 

概念は一緒けど言葉違う例はこれ、

 

沖縄人がアカジンって言ったらこれ。

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アカジンミーバイ、イシミーバイ、ハンゴ―ミーバイとミーバイ系がよく釣れますよ伊平屋

だけど和名はスジアラ。らしい。今知ったけど。

 

イシミーバイカンモハタ

ハンゴ―アカハタモドキなどなど

 

はじめましての言葉が多い今日。

 

卒論の概要としては言葉が「ものの概念」を表すことから始まって、

「言葉」を伝達するのは音だよね。

 

でもその音って言語によっても異なるし、同じ言語にでも声質とかその人の知識やボキャブラリでもー変わってくるんじゃん。

 

言葉によって考えていることを人に伝えてコミュニケーションを取る。

言葉遣いは受けてきた教育や性格を反映するし、声質はその人特有のもだと仮定すると人を定義するときにその人が話すことはその人を表すのではないか。ってなって

 

その言葉を運ぶものとして音が大事な役割を果たしていることを考察する。

 

2年前のたっちゃん思考結構、面白くない?

 

 

引用

シティ・オブ・グラス ポール・オースタ―(1993)

Auster Paul. City of Glass, 1985 p57

 

 

 

 

 

 

 

 

逃避脳 ~Escapism Brain~

 

逃避脳という言葉に出会ったの少し考察してみたい。

 

保護者や教師が同じことを何度も繰り返して言うことで子どもを教育し、生活態度などを改善しようと考えは効率が悪いそうだ。

 

事実、かえって逆効果になってしまう可能性が高い。

 

これに逃避脳というメカニズムが関係する。

最近まで知らなかったが今の仕事(教育現場)に関係があるので興味を持った。

 

子どもに「できていない」や「なっていない」と指摘するという行為は

大人からすると「当たり前」「教育」かもしれないが、

子どもにとっては「嫌なこと、言われたくない」ことであることが多い。

 

人間は身を守る防衛本能を備えていて

命の危険からストレス、不安など日頃の生活も含めてすべての

「自分を守るべき状況」に対面したときに働く。

 

働き方はエグいくらいたくさん種類があって

防衛機制のカテゴリーの中で「抑圧」が逃避脳として作用する。

わかりやすい防衛機制の説明を貼っておく。

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6

 

言われたくないことや叱られるという体験は

ちょっとしたトラウマみたいなもので何度も続くと

相手がいくら正しいことを言っていても脳が

言われている内容を「嫌な情報」と判断してその言葉を

聞き流す、心に響かない、記憶から締め出す。

 

これが逃避脳

 

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逃避するならカナダ、こんなに荷物いらんけど

 

「叱られることに慣れてしまっていて、何を言っても響かない」

大人は言うかもしれないが

逃避脳になってしまっているのがまさにそれだ。

 

教育のために、しつけのために、口酸っぱく、何度でも指摘する。叱る。

 

この親心的気持ちが子どもが逃避脳になる状況を作り出している。悲しいかな

 

子どもが何かできたときに十分に頑張りを認めずに、

これが当たり前のことだからできて当然と

さらに難易度が高いことを要求するのも大人の傾向だ。

 

子どもの成長に期待するあまり、無意識のうちに

 

(良かれと難しい課題を)子どもに投げつけて→(子どもは当然)できない

 

→ あれが出来たのになぜこれは出来ないのかと指摘する。

 

結果、

達成感はほとんどなく、子どもはできないことがまた一つ思い知らされるわけだ。

 

せっかく何かを達成したのにほめられず、もっと難しいことをやってみろと提示する。

 

酷だ。

 

にんじんを横向きに二つに切れたから、次は鯛を三枚に下ろせと言っているようなもんだ。

 

無理でしかない。

 

子どもが何かを出来るようになり、なおかつその行動が定着しルーティーン化するまでには時間がかかる。

 

親や教育者は子どもが何かを達成したときに一旦立ち止まり、一度子どもの頑張りを認める時間は作るべきだ。

 

にんじんを横に切れたならまずそのことを褒めよう、定着するまではその切り方で続け、その次に縦に切ることに挑戦だ。

 

いきなり鯛はあかん。どこから手つけていいかわかるはずもない。

 

そもそも板前がそれを許さない。 知らんけど。

 

 

子どもが言うことを聞かないと

「叱る」という行為にかこつけて自分の思い通りに子どもを動かすことができないことのイライラを子どもにぶつけていることが往々にしてある。

 

「怒っている」のでなく「叱っている」という意見の人もいるかもしれないが

 子どもはどちらも同じ威圧感を感じ取る。

 

子どもをコントロールできないから

「叱る」「指導する」といったそれっぽい便利な言葉を使って

    ↓

「威圧的な言葉や態度で抑え込んでいる」ような状態だ。

 

とても教育的な言葉ではないが自分の子どもには強い物腰で話す大人は

結構多い。というかほとんどだろう。

 

何回言っても聞かないとか、こんなこともできないのか、日本語わからないのか

 みたいな言葉を子どもにぶつけている親は正直たくさんいる。

 

きつい口調や厳しい態度で何か言われるとその言葉が対する

負の印象はより強くなる

 

怒られたという恐怖感が勝って内容はきっと頭にスッとは入りずらい。

 

逃避脳の形成を促してしまうかもしれない。

 

「叱らない」教育が求められているのかもしれない。と漠然に思うけど

 

それが実践できるようになるためにはもっともっと

いろんな角度から子どもを「見守る」訓練を積まないとあかん。

 

教育現場にいられるのも残りわずかだが

じっくり時間をかけて観察する、対話してみるところから始めてみる。

 

ちなみにとんだバイザウェイだが、

Rickie-Gの逃避行という曲がめちゃくちゃ好きだ。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チケット取ったらもう勝ち Jump before you think.

留学に行きたいと思い始めたときからいろんな準備を始める人がいる。

 

留学経験者に話を聞いたり、英会話に通い始めたり、英語習得の参考書を買いあさって文法を学ぶとか、TOEICのハイスコアを取ることを目標にしたりなどなどだ。

 

留学前にありとあらゆる準備をして留学に備えるべきだと考える人たちが多く存在する。 潜在意識的に完璧主義の日本人ならほぼ100パーだろう。

 

留学について聞かせてくださいと言ってくれる後輩や 留学エージェントで働いていてカウンセリングでいろいろな人と話す機会があった。

 

留学を決めた人に言うのは一つ

 

留学行く前からいろんな準備に時間をかけるくらいなら

衝動的でもいいからさっさとチケットを取って現地に1回行ったほうがいい。

 

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考える前に飛んだらええ

 

これに尽きる。

 

Don’t get me wrong

準備なんてしなくてもいいとは言わない。

ただ、変にいろんなことを心配しすぎて準備に追われて留学に飛び立つのを先送りするのは本末転倒あんど時間の無駄の極みだ。

 

経験者の話を聞く いいと思う。成功話じゃなくて失敗談を聞こう

英会話に通う   資金がもったいない留学に行けばいやでも腐るほど英語を話す。 参考書      ネットとアプリでいい。

TOEICスコア   お金と時間がもったいない 

いまだにTOEICスコアで英語力測ったり、就活で重視する国は日本くらいだ。(おまけで韓国くらい。) IELTSとかケンブリッジ英検、100歩譲ってTOEFLなどの他の世界基準の英語試験のほうが実際の総合した英語力を判定できるし、進学、就職にも7倍有効。

 

TOEICハイスコア保持者で実際にスピーキングがはちゃめちゃに弱い人なんて国際通りを歩いてる中国人くらいいる。棒に当たるレベル。

 

長期留学したいからそれだけの資金が貯まるまで働くという考え方もある。

 

やしが 働いている間に大事なものとか

やりたいことの優先順位が変わって留学の順位付けがなーなーになり、

留学を中心に描いていた未来予想図が夢のまま終わることや

 

結局目標金額がたまらなくて留学を諦めてしまう人

 

留学に行かずに終わったために、もし留学に行っていたら

 

自分の人生はもっと煌びやかに変わっていただろうな

今の自分とは違う才能が開花していて革新的なことをしていただろうとか

白人金髪の彼女ももしかしたらワンチャンとか

 

やらなかったことに対して

後悔と膨らみすぎた期待に妄想補正まで付けて語る人

 

こういう人たちが20世紀末まじめにノストラダムスの予言を信じていた人口並みにいる。

 

 

もったいない。

ワンガリー・マータイも戦慄する。

本当にスーパーもったいない。

ja.wikipedia.org

 

とりあえず一度短くても留学に行った方がいい。衝動でもチケットを取ろう。

 

そしたら、出発日に向けて現実的な準備を始めることができる。

 

必要な資金を確保するために節約が始まるだろう。

マジで不安で心配だから経験者の話も耳かっぽじって聞く。

ケータイもSNSを流し見じゃなくて英語学習アプリを血眼で見る。

 

はずだ。

 

そして、現地で自分の英語がどのくらいなのか、実際どのくらい英語で現地生活ができるのか、また留学したいと思うか、今度はどんな国に行ってみたいか、英語を話したいだけなのか、英語を使って仕事をしたいのかなどなど

 

具体的なことを体験したあとで考えることができる。

 

留学への期待を膨らませていろいろな計画を立てる人も多いはずだが。。。

残念なことに以外にスケジュールは自分の思い通りには進まないことが多いみたいだ。

 

留学に飛び立つのを先送りにすればするほど留学に対する希望は大きくなる。

 

それは正直、危険だ。デンジャー

 

留学に行けば自分は変われるはずだ。

内気な性格も変わるはずだ。 英語もペラペラになるはずだ。

英語しゃべれたらモテるはずだ。何もかも良い方向に進むはずだ。

留学することで人生の何もかもが良くなるみたいな極端な発想に転じてしまう可能性があるからだ。デンジャー

 

留学することで変わるのは自分が生活する環境だけだ。

あとはすべて変わらない。

変えていくのはあくまで自分自身。

留学に希望を抱きすぎて現実とのギャップで挫けそうになった人をたくさん見た。

 

日本の英会話教室でレベルの高いクラスで学んでいたり、受験テクニックも含めTOEIC800点台くらい取ると自分は英語が話せると思う。

 

だがしかしばっとやしが 留学に来て、いざネイティブと話してみたら

「マジ速すぎてお経かと思った。」

「自分の英語が1ミクロンも伝わらない。」

「英語ワカリマセン」 という人は後を絶たない。

 

生の英語を聞くことで自信の英語力への自信は砕かれがち。

砕かれすぎて粉末になり、風に乗って空中に舞い、エイゴワカリマセン病菌となって他の人に感染していく。感染力はコロナなんて目じゃない。デンジャー

 

Long story short

どっちみち、希望も自信もある程度は砕かれる。あんまり膨らませない方がいい。

 

どんなに短い留学でも、それを経験したら、英語とどう関わっていくのかがわかる。

今度は長期の留学をしてみたくなるかもしれないし、

違う国に行ってみたいかもしれない、

大学とかで英語を学びたくなるかもしれない、

英語を使った仕事をしたくなるかもしれない。

自分のやりたいことが意外とクリアになる。

 

きっかけになれば程度の軽い気持ちでチケット取ってみてほしい。

 

その短期留学は絶対何かのきっかけになるから。

The more you read, the better you get to know yourself.

I believe reading helps to find myself.

 

I’m going to write what reading brought to my life.

 

One of the most famous poet, W.H.Auden says “Man is what reads”

He considered reading is an action of making a person. I agree with his idea because

reading helps people to create a person’s identity, such as tons of knowledge, imagination, new perspectives.

 

 

 

Let me explain three things you would get from reading.

 

First, a lot of knowledges

Reading is a surely good way to learn languages. You could get a bunch of new words, idioms and grammars. As a factor of learning languages, reading is necessary.

When you learn other languages, you going to have to read something written in the language, if you do NOT read, you wouldn’t get any ideas. As a teaching theory, reading, writing, listening and speaking are supposed to be integrated to master a language, those fore factors are indispensable to one another.

 

Order does not really matter, some people start with listening, others start with speaking but reading can be a good start I believe reading is the best way of input, store knowledges, words, then maybe you can move on to put it out. I mean speaking.

 

Generally speaking, Japanese English learners are good at reading the most. This is because English education in Japan is focusing on reading and writing, to be able to grab certain points from a lot of information, you might know how important reading is.

On the contrary, some people are a little bit too shy to speak in English though x) 

 

Second, new perspective.

You could get a new point of view though reading books, which is basically author’s view, also protagonist’s and other character’s view.

In many cases, books describe different world from you belong to, you could know how is that world like, what people think, new common sense maybe, something sounds unique or weird in your sense.

 

By thinking in other’s way, you could take your thinking objectively. If you know the difference, the understanding helps you to be able to accept the something confuses you or annoys you. It leads to solve your problem hopefully.

 

In my case, I had been confused cultural difference, like, hugging, making sounds when you eat, cutting into conversation and not listening to other people.

Once I got to think those things might come from culture differences or personality, I became not to be upset anymore. Moreover, when I have argument with someone I became try to think about my idea from the other’s view and look myself objectively.

 

And then, identity.

I want to introduce a quote here.

 

There is a saying in my favorite book name

 

The Shadow of the Wind.

 

“Books are mirrors. You only see in them what you already have inside you”

 

When you read a book, what you get is pretty much what you already have. What you get from the book is different from others get, it depends on the you.

Some people might get unique idea that you might not get.

 

You may get something strange and weird for others, you may focus on something others do not even mind, it means the things you got from the book is what interest you, important to you, and make you.

 

To know what you think, what you have is helpful to define yourself.

For instance, you might not get anything from a famous book, it doesn’t mean either you don’t have nothing or knowledge, it should mean you have something else different from the book, if you think that way, you would recognize what you already have and what you do not have, then you would realize what makes you, your bases, your way of thinking, experience, imagination, belief.

 

And you know what, you can experience the author’s experience so you may open new door and keep changing.

Knowledges, thinking, better understanding, new perspective, I am made of those things. With time goes many things have changed and I will be change, with new place, new people, new world. Reading gives me so many things so far, my way of thinking, English, personarity.

 

When I read a book I could sense something in there, that’s the thing I already have and that helps to identify myself. I’ll keep reading to find my identity and also changing myself to be better.

 

Thank you for reading ;)